坐る
整体では、動作指導や体操、身体操法こそが人が最も変わります。
人は、立つ、坐る、寝る、というどれかの姿勢でその瞬間を生きているものですが、私の整体ではよく「寝る実力」「床を使う実力」と言って、寝ることを重視している事は以前から結構言って来ました。
これも重要ですが、最近はすこし世の趨勢の影響があってか、「坐る」事の意味が大きくなりました。
違う言い方をすると「坐れない人がまた増えた」という事です。
今は「寝れない人」に加えて「坐れない人」まで多くなって、そりゃもう世の中も乱れますわな。
坐るって、結構難しいのです。できる人には簡単ですが、というかきちんと坐る事が最も楽ですが、この「楽」が分からないから余計な事をして本当に坐る事ができない。
先ほど「世の趨勢」と書きましたが、今の世間が考えている「楽」と、本当の「楽」に乖離があって、それがどんどんさらに広がっているのでしょう。
「苦楽共に」と言うように、楽には苦がセットなのですが、片方だけ欲いので狂う。
坐った際にはこの「苦」が醍醐味なのですが、これを避けるので坐り姿が崩れる。
「まあとにかく坐れよ」「ここは坐ってじっくり話しましょう」などの言い回しがある様に、坐るという姿勢は乱れた流れを一度断ち切って、リセットして、一呼吸置いて、ちょっと頭を冷やして話をしましょう、という姿勢です。寝ながら大切な話をする人はいませんよね。立ち話は井戸端会議ですよね。
本当に大切な話をする時は、人は坐ります。
ですので、坐れない事は本当に大切な話ができない事にまで繋がります。
大袈裟でしょうか。でも今は本当に真剣な話は避けている世の中に見えます。
面倒臭いんでしょうね。大切な話をしてるっぽいスタイルは欲しいけど、本当に大切な話からは逃げたい。
坐る実力が感じられないのは、そんな背景も多分にある様に思います。
ではどうやって坐る実力をつけるのか。これはもう坐るしかない。繰り返し坐るのです。
長い時間坐るのです。
そして、きちんと坐れている人を見ることです。
だから私の整体では本当にずっと坐ってもらう(笑)。
しかし坐ることの威力はすごくて、ヤンキー座り(和式トイレ座り)が出来なかった人が正式な坐り方をした後ではすぐにヤンキー座りができる様になったり、立ち姿もなにもかも変わる人も居ます。
ただ単に長く坐るだけ。これで体が劇的に変わる。もちろん坐り方は誘導しますが、特別な力学体操の様な専門性のある動作ではなく、本当にただ坐るだけ。それで全部変わるんだから我々は何をしているのかと。
逆にいうと、普段それほどまでに坐っていないのです。
何度も坐る稽古をしていますと、「この姿勢は怒られているときの姿勢だな^^;」と気が付きます。
正確に言うと叱られる時の姿勢。
丁稚さんが叱られる時の姿勢(笑)。
丁稚を10年15年やって、やっと番頭さんになる。怒られないで番頭さんになった人は居ないでしょう。
だから番頭さんの御用を聞く姿勢(坐り方)は綺麗です。
坐り方が綺麗な番頭さんはよく仕事をこなすでしょう。それだけその番頭さんに目をかけた(叱ってくれた)大旦那さんが居たと言うことですから、よく鍛えられているはずです。
坐るという姿勢は人の話を聞く姿勢です。仏法でも「聞法の功徳」と言って、素直に話を聞く事がもっとも徳が高いとも言われます。
坐れない時代というのは、人の話を聞かない時代なのでしょうか。怒られる(叱られる)ことを極度に嫌っている時代なのは何となく分かります。叱ってくれる人も少なくなりましたからね。
親方から怒られていて(今足を崩したらシャレにならん💦)という場面もどんどん減っている気がしますね。
つまり坐る力とは、坐った向こうに誰かがいた事を示します。それが人であれ神仏であれ何であれ、その坐り方でその対象への真剣度が見えてきます。立つ、寝る、ではこの姿は見えてきません。
今のあなたが綺麗にしっかり坐り切っている姿でいる事は、かつてあなたを育ててくれた人への恩返しとなっている事を知ってください。
人は自分の為に体を整えようと思っても整わない様になっています。
「親方が怒っているからシャレにならん」
「恩義ある人に向かってヘラヘラした態度は出せない」
「後輩の手前しっかりしておかねばならない」
「御霊前でふざけた姿勢はできない」
自分以外のものに体を使う時に整います。
さて、あなたは誰のために坐りますか。
その坐っている姿を誰に見せますか。
誰の前で、きちんと坐りたいですか。
体から出てきた言葉を書いて行こうと思います。 読んでくださってありがとう。

- 平成15年5月より奈良県大和郡山にて開業。奥中式腹部調律整体を中心にして体から余計な力を排除し、骨格を正して重力と親和させます。生きていくのに本当に必要なものは自分の中から湧き上がる。お問い合わせはお問い合わせフォームよりお願いいたします。