同じ晴れでも
先日お客さんと話してて、良い天気が続きますねえという話題。最近はとにかく忙しいのと、外の用事をあまりしていないので天気に関心がなく、そう言えば確かに晴れが続いているなあと思い返し、ふと改めて記憶の中にある晴れや雨の思い出を考えてみました。
記憶によく残っていたのは長い期間雨が続き、ようやくやっと晴れた時の気持ち良い青空でした。
(数年前ですが本当に2週間ぐらいの長雨でした)
しかし毎日晴れが続くと人は結構その有り難みを忘れるもので、清々しい朝の空気も当たり前と言うかカウントにすら入らず、天気が悪くなって、しかもそれが長く続いたりしてやっと晴れの良さを再認識して余計に価値を見出して欲しがるものです。
これは人体の健康でも同じ事ですよね。
健康に元気に動ける事が当たり前で、体を壊してやっとその有り難みを感じると。
なんとなく親を亡くしてから親の有り難みを感じるみたいなお話になりますが、これは錯覚によってそう感じるものでもあります。
「当たり前」とは錯覚です。錯覚は認識している対象が実際には無いのに有ると思う話だと理解しがちですが、実際にはそこにあるのにそれが分かっていない事の方が錯覚の本体です。
これを私は整体施術で応用します。
痛みが出ているところは、健やかな部位に比べて楽になった時により楽に健やかに感じるものです。
ずっと膝が痛かった人が楽に歩けるだけで本当に嬉しそうに驚き、確かめ、また喜び、安堵の表情を見せます。これも実際は錯覚。反対の膝は問題がないのですが、一度痛い方の膝に着目が発生するとそれが気になって仕方ないのも錯覚です。
人は錯覚で世界を作っています。認識という錯覚です。自分が認識できているという設定も錯覚。危ういのです。しかし身体において痛みは人を支配するので、錯覚とか言ってられなくなりとにかく痛い事を治してくれというものまた心情です。
錯覚の根底には「欲」があるので、どうせ欲があるなら施術においては大いに利用します。
だから改善するとより楽に感じるし、嬉しいし、それは錯覚であれ何であれ良いことだろうと思います。
しかし晴れが続いている時に晴れの良さを実感したり、その晴れをよく利用する方がやはり良いと思います。
この為には錯覚の反対のエネルギーを使わないといけませんが、錯覚の反対ってなんでしょうか。
私的には「地に足をつける」という事に帰結しています。
それは「良い方を使う」という心がけであり、今使える方を使って日常を生きるという事に集約されます。
地に足が付かない事とは、持っていない事に着目するという事だろうと思っています。
痛みが出ている事よりも使える事の方に重点をおく。右が痛いなら左を使う。上がダメなら下を使う。
これは橋本整体の操体法に通じます。
錯覚は「気づかない事が本体」と書きましたが、人は使える方に着目するのが苦手なので、今の自分は何が使えるのか、今の状況で何ができるかに着目させるだけで体の使い方は結構変わります。
「使う」とは、用事をするという事ですし、仕事をするという事ですし、日常を生きるという事です。
日常の為に用事をし、仕事をし、体を使うのです。
欲には「自分を使う」とは真逆のエネルギーがあり、これが強くなると錯覚を起こします。
錯覚ではなく実際を生きるには、まず今の体を日常の用事に使うしかないのです。
先日は久しぶりに東京への出張でしたが、帰る日にすごい大雪で新幹線が予定通り運行されるかドギマギしました。しかし雪化粧をした皇居はとても綺麗で、東京の空気は冷たく澄んで綺麗でしたね。
無事に帰って来た地元はホッとします。
奈良の明日の予報は晴れです。
体から出てきた言葉を書いて行こうと思います。 読んでくださってありがとう。
- 平成15年5月より奈良県大和郡山にて開業。奥中式腹部調律整体を中心にして体から余計な力を排除し、骨格を正して重力と親和させます。生きていくのに本当に必要なものは自分の中から湧き上がる。お問い合わせはお問い合わせフォームよりお願いいたします。